全校朝会(6月9日)

郷土の偉人 ~斎藤実盛について~

校長  清水 利浩

◆今日は朝から雨です。梅雨入りしましたというニュースを耳にします。関東地方も今週中には梅雨入りするようです。季節は、確実に移っているのですね。

◆3年生は、先週、修学旅行に行ってきました。3年生の先生から、皆さんが書いた「修学旅行を振り返って」を見せていただいています。「修学旅行のありがとうを3つ」、「修学旅行での正しい判断とたくましい実践」、そして「2年生に伝える京都・奈良の良さ」。こうした項目に対して一人一人が、しっかりと向き合い、書いてくれました。特に、修学旅行のありがとうでは、宿の方、添乗員さん、タクシーのドライバーさん、カメラ屋さん、座禅のお坊さん、町のお店の人、そして仲間、おうちの方、先生といろいろなことに気づいて、感謝の言葉を行った様子がわかります。素晴らしいことですね。この気づくアンテナは、ふだんの生活でも、と思うところです。

◆さて、今年の3月、熊谷市の小中学生に左の写真にある小冊子が配られました。「マンガ 斉藤実盛と妻沼聖天山」という小冊子です。今日は、斉藤実盛についてお話しします。

◆斎藤別当実盛は、平安時代の終わり頃に越前国(現在の福井県)で生まれた武士です。実盛は、その後大きく成長し、源氏の棟梁である源為義(ためよし)に仕え、現在の妻沼の地に移り住みました。

◆1155年、「大蔵館(おおくらやかた)の戦い」という争いが起きました。これは、源氏同士の争いで、源義平(よしひら)が、源義賢(よしかた)を殺害するという戦いでした。源義賢の2歳の子に、駒王丸(こまおうまる)がいました。駒王丸は、のちの源義仲(よしなか)です。齋藤実盛は、この駒王丸を預かり、信州(長野県)に送り届けたといいます。

◆保元の乱と平治の乱が起きると、齋藤実盛は、源義朝(よしとも)に従い、活躍をしました。しかし、平治の乱で源氏が敗れると、実盛は、平氏との結びつきを強くし、平家領である長井荘(ながいのしょう)の荘園領主となったようです。妻沼聖天様はこの頃、開かれたといいます。

源平の合戦(治承・寿永の乱)がおこると、ほとんどの武蔵武士は、源頼朝に従いますが、齋藤実盛は、一貫して平氏方につきます。富士川の戦い(1180年)では、平氏方の案内役として、東国の武士の強さ、恐ろしさについて進言したといいます。

◆平家方が敗れていく中、齋藤実盛は、平家方が敗れていく中、ただ一騎踏みとどまります。1183年、篠原(しのはら)の戦い(現在の石川県加賀市)で、源義仲軍に討たれて亡くなりました。源義仲という人は、かつて2歳の子どもだった、助けられた駒王丸です。齋藤実盛はその時、70歳を越え年老いていました。齋藤実盛は、年老いた武将と侮られたくないので、白髪を墨で黒に染めて出陣していたのです。現在、聖天様にある実盛像は、まさにその時の様子を示しています。源義仲は、このことを知り、涙したと伝えられます。

◆身近な郷土の偉人のことをお話ししました。今から800年ほど前に、この地で活躍していた人物について、知ることは大切なことです。きっと日々の生活に、いろいろと関わりがあることと思います。今日は、以上です。

<参考>『マンガ「斉藤実盛と妻沼聖天山」』令和7年3月 熊谷市教育委員会  ・熊谷デジタルミュージアム 熊谷市江南文化財センター